川口の歴史・文化特集
こちらのページでは『日光御成道(にっこうおなりみち)』の歴史をご紹介します。
『日光御成道』とは、徳川将軍家の日光社参のために使われた街道です。
【目次】
日光御成道(にっこうおなりみち)は、本郷追分(東京都文京区)から、幸手宿(埼玉県幸手市)の手前で日光街道に合流するまでの12里30町(約48km)、徳川将軍が社参(参詣)に向かう専用道として江戸時代に整備、発展した歴史ある街道です。
もともとは鎌倉時代の奥州へ通じる幹線道路「鎌倉街道中道(かまくらかいどうなかつみち)」で、慶長5年(1600年)、この道を北上して上杉征伐へ向かった徳川家康は、小山宿(栃木県小山市)で石田三成挙兵を知り、直ちに引き返して関ヶ原の合戦で勝利、やがて征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開きました。
家康公は、その遺言により日光東照宮に祀られ、以来、歴代将軍の日光社参が幕府の大切な行事となります。江戸城大手門を発し、神田の昌平橋で中山道に入った将軍一行は、本郷追分(東京都文京区)から日光御成道へ。この道は、いわば「将軍専用道」。岩淵宿(東京都北区)、川口宿、鳩ヶ谷宿、大門宿(さいたま市)、岩槻宿(さいたま市)を経て幸手追分(幸手市)で日光街道に合流します。
日光社参は、将軍家の一大事業。第10代将軍・家治(いえはる)の日光社参の際は、行列の先頭が日光に到着してもなお、最後尾が江戸を出発していなかったと伝わります。
岩淵宿を出た将軍一行は、対岸の川口宿との間に横たわる荒川に、長さ65間の板橋を架け渡りました。そして川口宿へ。御膳所である錫杖寺に入り昼餉をとりました。代々譜代大名が務めた岩槻藩主は、川口宿で将軍を出迎え、宿所となる岩槻城にとんぼがえりし再び将軍を出迎えました。今も国道122号線の岩槻以南に「岩槻街道」の通称が残ります。
鳩ヶ谷宿はいわばジャンクション。日光街道千住宿・草加宿・越ヶ谷宿を結ぶ「千住道」、「草加道」、「越ヶ谷道」、中山道戸田の渡し・蕨宿を結ぶ「戸田道」、蕨道」の名が今も残ります。見沼通船堀も開削され、人と物資が集まりました。
東北自動車道、関越・常磐自動車道を結ぶ東京外環自動車道、首都高速道路が交差する川口ジャンクション。川口は今も昔も交通の要衝なのです。
日光社参は、家康の命日4月17日に詣でるもので、二代将軍秀忠が3回、三代将軍家光は9回、四代将軍家綱が世子も含めて2回、八代将軍吉宗・十代将軍家治・十二代将軍家慶が各1回の計17回行われました。
初期の社参行列は質素でしたが、次第に華美で大規模なものとなり、費用も膨大となって幕府財政を圧迫するようになりました。
そのため、社参を行えなかった将軍もいましたが、吉宗が65年ぶりに行った社参は、盛大な行列を組み、譜代大名など総数13万3千人に達しました。
最後の社参となった家慶のときは、失墜した幕府の威信回復のねらいもあり、さらに増え総勢15万人に及びました。
平成23年に旧鳩ヶ谷市と合併したことを契機として、地域の一体感醸成と新たな郷土愛を育むとともに経済の活性化を図り、観光資源としても全国に発信するため、実施された「川口宿 鳩ヶ谷宿 日光御成道まつり」。
平成24年の第1回から3回に渡り実施されたこのまつりは総来場者数48万人、参加者4,900人を数える盛況で、歴代徳川将軍による日光東照宮への社参行列を中心とした勇壮な歴史絵巻の再現は観客を大いに魅了し、軽快な音楽とともに繰り広げられた「元気川口・御成道サンバ行列」には、沿道のどの人の顔も笑顔になりました。
当初の役目を果たしたまつりの記録と、御成道の歴史を引き継ぎ、継続的に発信するために制作された映画「ロード・オブ・ONARI~未来へつなぐ想い~」をぜひご覧ください。
「第3回 川口宿 鳩ヶ谷宿 日光御成道まつり」は日光社参行列をはじめ、オリジナルソングで踊る「元気川口・御成道サンバ行列」を新たに加えるなど、総勢約1,500人が出演。14万9,000人の観客が訪れ、300年の時を超えた華麗な時代絵巻を心行くまでお楽しみいただきました。
津田寛治さん演じる将軍・徳川家光が、日光東照宮へ向かう「御成道」で現代へタイムスリップ。戸惑いを抱えつつも、現代の川口市の人々と触れ合うことで熱い友情が芽生え始め・・・
将軍・家光が江戸時代に戻るために人々の協力を得て、川口発展のルーツである「御成道」の伝説を追う物語です。
全編川口市でのオールロケ、各所に川口名物が登場するなど川口市全開のハートフルコメディ映画です!!
果たして殿は戻れるのか!?乞うご期待!!
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳細はお問い合わせください。
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